こんいちは、べいるです。
犯罪が成立するためには、故意が必要となるケースがほとんどです。
同じ行為でも、内心面において故意が認定されなければ、犯罪の構成要件は非該当となり、犯罪そのものが成立しないものとなります。
今回は「故意」関し、未必の故意と認識ある過失の違いについて説明します。
故意と過失
同じ行為でも内心面で故意と過失に分別される
さて、冒頭で内心面における故意の有無で犯罪の成立の要否が左右されるといったことを説明したところですが、ちょっと分かりにくいですよね。

石を投げて人を怪我させるといった傷害事例をもとに考えてみようと思います!
まずは故意と過失についてです。
【Aさんが石を投げて人に石が当たった場合】
人に当たらないように投げたが当たった
⇒過失が認定される(過失傷害)
人に当てるつもりで投げて当たった
⇒故意が認定される(暴行又は傷害)
Aさんの意識次第で同じ行為でも故意または過失に分かれ、罪名が変わるのです。
では次に、未必の故意と認識ある過失について確認します。
未必の故意の内心面
まず未必の故意はどうでしょう。
先程の事例の続きです。Aさんの内心面をみてみましょう。
今から石を投げるけど人に当たったりするかなぁ?人通りもあるし当たるかもしれない。まあ、当たっても構わないが ⇒ 石が人に当たる!
これが未必の故意です。
不確定ではあるものの、結果の発生を容認している状況です。
認識ある過失の内心面
一方で認識ある過失についてはどうでしょう。
そもそも認識ある過失は、過失の中でも故意に近い位置付けではあります。
再度、Aさんの内心面をみてみましょう。
今から石を投げるけど、人に当たったりしないかなぁ?流石にあんなところを人が歩いていないだろうから、当たらないかな ⇒ 石が人に当たる!
これが認識ある過失です。
人に当たる可能性を示唆しながらも、最終的に当たらないと判断し、予想と異なる結果を発生させてしまうものです。
この場合は、故意が認定されず過失となります。
結果の容認があれば未必の故意、なければ認識ある過失ということです。
イメージが湧いたでしょうか。。。
まとめ
今回は未必の故意と認識ある過失について説明しました。
なかなか馴染みのない内容だったとは思いますが、犯罪の事実認定をする上で、故意・過失の審査は必要不可欠です。
同じ行為であっても、行為者が結果の発生を容認しているか否かで罪名そのものが変わってきます。
犯罪の事実認定をする上で、行為者の内心面は非常に重要なのです。
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